複雑さを生み出すある一つの物理法則、重力
膨張とともに熱を失っていく宇宙は、重力の存在により、再度熱を集中させることを可能にされている。
重力と熱の増減が様々な原子を生み出し、世界は複雑になった。
さらなる複雑化に至る過程はまだ読んでいない。
ありふれた、失敗
深夜の登山に出かけようと思ったが、電車の時間を間違え、泣く泣く家に帰ってきた。
こういうのはいけない。
統合された認識をバラバラにほどく。生活の一部のわざとほころばせる。
丁寧に遊ぶ。こういうことが必要なのかもしれない。
現状
なにかが動き出しそうな予感がしている。
自分の意志に素直に従うことで得られる充足感。これは正しいものなのだろうか。戒められるべきものなのだろうか。
ともかく、今はそれに従うことを決めたわけだ。
そもそも、抗うことはできなかったのかもしれない。
それは、ウイルスのように自分の体内で増殖しつつあったのかもしれない。
自分の免疫が敗北したのかもしれない。
メモ書きのようなもの
単調に繰り返される日々のリズムに、少しずつずれが生じていく。あまりにも些細なので、あるいは変化というものを見たくないので見逃しているのだけれども、確実にずれていく。ズレは直されることがなければ、確実に破綻をもたらす。破綻が起こり、混乱が起こり、なんらかのかたちで収拾がつき、振り返って初めて「ああ、ずっとずれていたんだな。自分はそれに気づかなかったんだな。」と理解する。
これ自体一つの学習の方法であって、全く避けるべきものとも思わないが、破綻や混乱の過程で生じる痛みを避けたいと思うなら、そのための方法はある。
「日々をメンテナンスすること」
一言で言ってしまえばこういうことになる。メンテナンスには技術がいる。本来どうであるべきか、今どういう状態にあるのか、どうすればいい状態に戻せるかということに関しての知識や観察がなければできないことだ。これは勉強するしかない。知識を得たならば(結果得られなくても)、それを丁寧に実行していかなきゃならない。もし怠ったならば、その時からゆっくりと、しかし確実に破綻が進んでいくから。
在り来りな話しだとは思う。しかしこれを意識していたのなら、自分に一番近しい人の破綻は避けられ、一人の人間の可能性の大きな部分を(もしかしたらすべての可能性を)打ち壊してしまうこともなかったのだと思うと、やはり真に迫って大事なことなんだと再確認できる。丁寧に、真剣にやらなければならない。小さなほころびを見逃してはならない。
時間の経過
前回の投稿が一年半以上前でびっくり。
時間の流れの速さを感じる。
ストレートに、怖がらずにいこう、というのが最近の方針。
一年前
一年前の記事を見てみたところ、時の流れの早さに驚いた。
思ってみれば4月から一ヶ月と半月経っており、夏はもう目前だ。
この一年、この一ヶ月で何を学んだだろうか。
精神が回復してきた
長いこと精神的不調(?)に悩まされてきたが、最近は順調に回復してきている。その結果なのか原因なのかは定かでないが、無意味なことやものを認めるというのが最近の方針転換のひとつである。以前は存在の意味やあるべき姿みたいなものが自分の中心にあった。しかし今は、存在そのものをそれ自体として認め、意味や有用性なんてものは二の次として考える。意味への還元は、対象を限定して、さらにはゆるい必要性の要件を持たせるべきだ。ざっくばらんに言ってしまえば、あんまり意味を考えすぎないということである。思考停止しろということと近いかもしれない。人は思考するだけの存在ではないので、まぁ時々は頭を空っぽにするのもいいだろう。