文章のための日記

文章を書きます。

インドへ行く、夢想編

インドへ行くたびに出る想像をしていたら生きる希望が湧いてきた。自分の中ではまだ開拓されていない未開の土地を、飛行機代をいくらか用意することによって探検できる。ただ、怖いのはそこが自分のいる世界とほとんど変わらないという可能性があること。未知や冒険といったものが自分から離れていって、逆に日常が自分を捉えて離さないこと。常に開拓者である必要を感じる。

道徳的に生きるということ

今、中島義道の「悪について」(岩波新書)を読んでる。カントの考える「道徳的に善い行為」について解説した本だ。人の行為が道徳的であるためには、適法的行為をそれを行うことべきであることのみを理由に行われることが必要だというのがその主たる内容だ。自己愛に基づいた行為はすべて非道徳的であり、また意志が他律している場合の行為も同様にすべて非道徳的だ。我々は道徳的であるためには、自分自身の意志で適法的行為(これは時代や社会によって異なる)とはなんであるかを問い続け、また答えが出ないような時には一生悩み考え続けることが要求される。この苦しみ続ける態度こそが「道徳的」だというのである。

多くの人々はもちろん自己愛に突き動かされて生活しているだろう。自分や家族(家族は自己愛の延長線上にある)のために働き、遊び、考える。自己愛はほとんどすべての行動に伴っているかもしれない。あまりに自然で、一般的だ。しかしこれは道徳的ではない。表面を飾って良いことのように見せてはいるが、その内実何が自分の利益になるか計算づくめなのだ。道徳的になるためにはこれを自覚し、道徳法則(するべきであるからする)に基づいて行動しなければならない。そうしたら何が見えてくるか。自己愛と理性の永遠の反発。自分を引き裂くような苛烈な内部闘争。自らの足を後ろ後ろへと引っ張る重い楔だ。道徳的になるためにはこれは生涯をかけて続く。辛い。人生が牢獄のように思われる。自分がまさにこの状況だ。こんなものは無視して、自分の幸せのみのために邁進したい。その時に自分の耳にささやきかけてくるものはまぎれもなく自分自身の良心であり、正しく生きたいという純粋な気持ちだ。僕はこれに向かい合う必要がある。分裂する自分をまっすぐに見つめ、次の一歩だけを考えるのだ。

正確に書くことの効用

普段いろんな言葉が心に浮かぶ。「何もしたくない」「面倒臭い」「死にたい」などネガティブなことが多い。こういう言葉は文字通りの意味では真意を表していないことが多い。正確に解釈すると「何もしたくない」は「何か楽しみを感じられることがしたい」であるし、「面倒臭い」は「その事に時間を費やしたくない」、「死にたい」は「楽しく生きたい」の意味である。うーん、この文章はどうしようもない自己啓発本のような匂いがプンプン漂っているのだけれど、まぁこのように考えることで何か行動するための指針ができる。前向きになる。状態をネガティブなものではなく、ポジティブなものとして捉える。ネガティブに考えることの誘惑を振り払うことで、頭と体が軽くなる。ペシミストであることにすっかり慣れてしまった自分を殺さなければ。

 

正確に書くことで、ものをクリアーに浮かび上がらせる。勉強においても大事だし、実生活の様々な面においても有用だ。

物語とはなにか

 

 物語の意味について。自分が中学生のころから定期的に読んでいる村上春樹氏は「小説を自己治療的に書いている」ということを言っていた。自分のなかにあるなにかを物語として書き出すことは、自分の意識の表層にのぼることのない(あるいはまだのぼっていない)それを対象化する試みだ。その対象化されたものは自分の一部であり、完璧に真実である。どんなにくだらないものができたとしても、それは自分以外のものから発生したものではない。それを読むことは、まるでイスラーム世界を経て中世ヨーロッパに蘇ったギリシア哲学のように、隠れたものの再発見である。

 

結論:物語は、それがどのようなものであれ、自己の発見へと自分を導く。

 

言葉にするとかなり陳腐なものだが、実感が伴うとそれこそ再発見と言うべき貴重な体験になるな。

夢について

昨日はすこし疲れていたので、19時ぐらいに一度眠った。音声を聴きながら眠ったせいなのだろうが、夢と現実の狭間にいるような感覚に陥った。夢のほとんどは建物の映像であり、一見するとまったく記憶にないようなものではあったが、一部分は小学生の頃行った友達の家(あまり綺麗ではない)の光景であったり、映画かゲームで見たそれであったりした。なぜその記憶が今になって呼び出されたのかまったくわからないし、なぜ自分がその記憶をわざわざ保っているのか不思議だ。その記憶は、映写されたスライドが切り替わるように次々とその形を変えた。まったく不思議な体験だった。

 

本屋という空間について

今日(昨日)は本屋へ行きました。

わざわざ電車で行くほどの距離でもないが、自転車で行くと割と疲れる。しかし良い運動にもなったので良しとしよう。

行ったのは自分が住んでいる地域では最大の本屋で(東京都内でも大きいほう)、ありとあらゆる種類の本が並べてある。村上春樹の小説とエッセイを買ったのだが、新書や専門書などいろいろと気になるものがあって、買いはしなかったが楽しかった。

しかし、知らんことがいっぱいあるな。物理や数学などの棚を眺めていて、こういうものを勉強していろいろと考えることができたらおもしろいだろうなと思った。きっと自分の人生の長さでは、あの本屋にある本の十分の一も知ることはできないだろう。あらゆることについて知らないまま、なんだかよく分からない法則の流れに乗って冥土まで運ばれていくに違いない(そしてその時にはすでに手遅れである)。

自分が知らないことはどれだけあるか分からない。その総量に目安をつけるためにもでかい本屋へ行く価値はある。そこはあらゆる知への入り口だ。きっと今の自分には想像もできないほど面白いもの、不思議なもの、複雑なもの、理解しがたいものがあるに違いない。自分は、生きているうちにその多くに触れたいと思うし、それができるのは今、この時間だけなのだとしみじみと思う(未来では、絶対に学習することはない)。

 

理想

最近集中力の低下が危機的状況を迎えている。たぶんネットサーフィンのやりすぎ。ネットサーフィンをしている時には一つのことに集中することが滅多にない。次から次へとバラバラな脈絡のない情報がとびこんでくるからだろうな。そして脳みそがそれに慣れて、新しくかつ刺激的な情報だけを求めるようになる。その方が負荷は軽く、脳にとっては楽なのだろうけど、自分自身に害があることをわかってもらいたいもんだ(自分に言っている)。

 

タイトルを「理想」としたのはいいが、何を書こうとしていたか忘れてしまった。まぁいいや、それほど重要なことではなかったのだろう。

もっと脳みそにいろんな考えを投げ込んで、ミックスして、なにか新しいものを取り出したいと思う。そのためには、もっと本を読んだり、映像をみたり、音楽を聴いたりすることが必要だ。でもきっと一番求められているのは、なにも見ず、なにも聴かず、ただ自分の深層(井戸の底のような)に潜っていく時間にちがいない。