文章のための日記

文章を書きます。

道徳的に生きるということ

今、中島義道の「悪について」(岩波新書)を読んでる。カントの考える「道徳的に善い行為」について解説した本だ。人の行為が道徳的であるためには、適法的行為をそれを行うことべきであることのみを理由に行われることが必要だというのがその主たる内容だ。自己愛に基づいた行為はすべて非道徳的であり、また意志が他律している場合の行為も同様にすべて非道徳的だ。我々は道徳的であるためには、自分自身の意志で適法的行為(これは時代や社会によって異なる)とはなんであるかを問い続け、また答えが出ないような時には一生悩み考え続けることが要求される。この苦しみ続ける態度こそが「道徳的」だというのである。

多くの人々はもちろん自己愛に突き動かされて生活しているだろう。自分や家族(家族は自己愛の延長線上にある)のために働き、遊び、考える。自己愛はほとんどすべての行動に伴っているかもしれない。あまりに自然で、一般的だ。しかしこれは道徳的ではない。表面を飾って良いことのように見せてはいるが、その内実何が自分の利益になるか計算づくめなのだ。道徳的になるためにはこれを自覚し、道徳法則(するべきであるからする)に基づいて行動しなければならない。そうしたら何が見えてくるか。自己愛と理性の永遠の反発。自分を引き裂くような苛烈な内部闘争。自らの足を後ろ後ろへと引っ張る重い楔だ。道徳的になるためにはこれは生涯をかけて続く。辛い。人生が牢獄のように思われる。自分がまさにこの状況だ。こんなものは無視して、自分の幸せのみのために邁進したい。その時に自分の耳にささやきかけてくるものはまぎれもなく自分自身の良心であり、正しく生きたいという純粋な気持ちだ。僕はこれに向かい合う必要がある。分裂する自分をまっすぐに見つめ、次の一歩だけを考えるのだ。